水彩画教室の合同展示会が無事終了いたしました。ご来場くださった皆様、誠にありがとうございました。
終了した翌日、アンケートを集計していたら、時々受けることのある内容の意見を見つけましたので、それについての私の意見を述べておきます。
それは、「分野を特定せよ」というご意見。
あなた方の会はボタニカルでもないし、水彩画というにはボタニカルっぽい。どっちかハッキリしなさい、というものです。
私の答えは簡単です。「自分の絵を描く時に、分野の定義を意識することはありません。分野の定義に自分の絵を合わせる意義がわかりません。」
人間社会を生きていると、同じような質問に出会うことは珍しくありません。
「これは日本画っぽくない」、「そんなのロックじゃない」、「日本人ならこうあるべきだ」「アートとは・・・」等々。
枠を決めてそこへすべてのものが収まることで安心したいのは、“特定せよと批判するその人自身”ではないでしょうか?
誰かが安心したいために他者を枠へはめようとすることが社会的に正当化されるなら、その社会の文化の発展は止まってしまいます。
なぜなら、すべての創作の方向性が、なんらかの既存のカテゴリーに当てはめられるように仕向けられ、委縮してしまうからです。
むしろ、文化のダイナミズムとは、しばしば分野と分野を跨ぐところから生まれてくるものではないでしょうか。
人間という生き物が、“観念の中で生きていることを自覚している人は、実は少ない”ような気がします。
言葉という枠を用いてはじめて人は感覚的に把握している外の世界を論理的につかむ能力を手にいれます。
しかしその枠は完全なものではありえません。何かをつかんだと思っても、そこからこぼれおちているものの方が多いのです。
文化の発展とは、いままではこぼれ落ちるに任せていたものの中から、何かを掬いあげることのできる新たな枠をつくりだして、
その“いくばくか”をつかめるようにすることでしょう。 しかし、その新しい枠からもこぼれおちていくものの方が多いのです。
それは、後の世界でまた新しい世代が、“いくばくか”拾い上げてくれるでしょう。一つの時代の一人の人間にできることは限られていますから。
もし新たな世代に対して、世界を今までの枠だけで捉えさせようと強制したら、文化は確実に停滞します。
だから私は自分の絵を描く前に、分野について考えることはありません。「分野」とは、誰かが歩いた道の後ろに生まれるものではないでしょうか。
(やれやれ、これでも私は日本画の世界からは、保守主義的で古い伝統的カテゴリー(写実主義)に固執した遺物、と思われているのですがね・・・。)